それは皆様が生まれるもっと前。およそ150年前へと歴史はさかのぼります。
味きっこうが如何にして生まれたのかを物語に致しましたので、ぜひお読みいただければと思います。
かの高杉晋作や勝海舟が活躍した時代。
播磨灘・大阪湾・紀伊水道に周囲を囲まれた瀬戸内海東部の自然豊かな島・淡路島の由良浦(現在の兵庫県洲本市由良)という地域で、私のご先祖である初代・魚谷亀太郎(うおたにかめたろう)は産声を上げました。
亀太郎の育った由良といえば、激しい潮流の中で泳ぎ続けた身の引き締まった新鮮な魚が多く獲れることから、古くから大阪を始めとする数々の魚市場に魚を納めており、近畿の人々に大変喜ばれて参りました。こうして由良の人々は、平穏に漁業で生計を立て漁業の町として発展しておりました。
自然溢れるこの島でスクスクと大きくなった亀太郎は、やがて成人となり、自分が育った故郷について"ある憂い"を抱くようになります。
― それは、この島ではまともに"米"が獲れないこと。
淡路島といいますと、島の半分以上が自然豊かな森林で覆われた土地。
島民の腹を常に満足させるだけの米を収穫できるほどの土地は無く、田んぼの数は限られたものでした。
そこで亀太郎は、大阪に魚を卸す際に、別の取引としてテグス(釣り糸)の原料と三田米を仕入れる商いを始める事を思いついたのです。
"少しでも故郷に貢献したい。"
そんな熱い想いが亀太郎を動かした瞬間でした。
― こうして、淡路島由良初の米屋「うおかめ」は誕生。
亀太郎を初代店主として歴史を刻み始める事となるのです。
島民の幸せを考えて仕入れた米。
それと同時に仕入れ始めたテグスの原料。
今の味きっこうの原点となるのは、米…でもあるのですが、実はテグスを仕入れた事も原点の1つになるように思います。
当時のテグスといえば荒テグスと言われ、中国産で太さもまばらの使い勝手の悪いもの。
そこで亀太郎は、持ち帰るテグスを手にし、大阪のテグス問屋に勤めた経験のある後輩・前田重吉と共に質の良いテグスの開発に着手することになりました。
鋼の板に大きい穴からだんだん微小となる穴を開け、その穴を通してテグス糸を細く仕上げるという手法を二人で開発し、光沢があって太さも均一の質の良い「磨きテグス」を完成させる事が出来たのです。
この磨きテグスの技術は、真面目で視力が良く、手先の器用な由良の多くの女性の家内工業となり、地域活性化におおいに役立ちました。
このことは、由良の古い文献『由良志稿(ゆらしこう)』にも記載されております。
その後扱う品目が増え、「うおかめ」は田舎のよろず屋的存在となっていったようです。
私は父(6代目・魚谷勇(いさむ))から、初代亀太郎は常に皆のことを考え商いをしていたということを聞かされました。彼の性格を知り尽くしていた得意先の皆様は、そんな彼のためにいつも良いものをわざと残してくれており、亀太郎は残り福で商いをしていたとも聞いております。
亀太郎の人徳は大変素晴らしいものだと代々伝えられてきており、父・勇は、私にもちゃんと亀太郎の遺徳を継いでいくようにと常々話しておりました。
それゆえに、私の中には、初代亀太郎のように周りの人々への配慮や感謝・お礼の気持ちを忘れず味きっこうを守っていきたいという気持ちが、魂のものとして宿っているのだと思えてなりません。
その後。
2代目方三郎(ほうざぶろう)・3代目秀五郎(ひでごろう)・4代目亀之助(かめのすけ)・5代目守男(もりお)は細々と家業を継いでいったようですが、4代目亀之助の頃には由良に進駐軍が大勢駐屯していたため、飲食業も始めて忙しく働いていたと聞いております。
1910年(明治43年)、父・魚谷勇は、「うおかめ」4代目亀之助の次男として由良に生まれました。
5代目守男が由良の地で必死に「うおかめ」を守っていたものの、時代背景や様々な技術の進歩により、残念ながら家業は衰退の一途を辿ったと聞いております。そして何よりも衝撃的だったのが、「うおかめ」の存続自体が危ぶまれる中で、5代目守男が無念の想いを残したまま突然他界してしまいます。
「このままでは、"うおかめ"がなくなってしまう。」
地元・由良を出て一人大阪の地で働いていた勇でしたが、「うおかめ」を再生すべく、故郷に戻り孤軍奮闘に明け暮れました。
元より真面目で勤勉。
そして何より努力家であった勇でしたので、彼が戻った「うおかめ」は、また本来の息を吹き返し輝き始めたといいます。
一時は危機を迎えた家業も難を逃れ、忙しい仕事の日々を送る中、勇は、妻・たまゑ(私の母)と結婚し、家庭では3男3女と子宝に恵まれました。
私は勇の5番目の子供として産声をあげましたが、兄弟分け隔てなく、それはそれはたいそう可愛がって育ててもらったのを昨日の事のように覚えております。勇はそういった子煩悩な一面もありましたので、私や7代目・浩也(ひろや)も、父が残してくれた「うおかめ」を一緒に守っていきたい…という気持ちが素直に育まれていったように思います。
また勇の別の顔として、彼は田舎の発明家でもあったようです。
世の中に電気洗濯機というものがまだ無かった時代に、一瞬のひらめきで酒樽の底にスクリューを据え、その中に粉せっけんを入れて洗濯をし喜んでいました。
またある時は、自動販売機の無かった時代に「正(しょう)ちゃん」という当時流行ったマンガの絵をブリキ板に2枚描き、1コインの重さで歯車が1コマ動き、5円~10円の木札が落ちてくるという装置を発明。5円~50円のアイスキャンディーを30組にしてセット販売をしたところ飛ぶように売れ、忙しくしていたのが思い出されます。
そういった、ひらめきやアイデアを形にできる頭脳と行動力。それに加えて真面目で努力家という父に対し、私は今でも尊敬の念を抱き続けてやみません。
1930年(昭和5年)。
魚谷浩也は、「うおかめ」6代目勇の長男として由良で生まれました。
勇には一番似ているのでしょう。ひらめきやアイデアが自然と湧いて出てくるタイプであり、機械いじりも大好きで得意な兄でした。
「うおかめ」の商いの一部にうどん・そばの製造(製麺業)があったのですが、それを見て浩也はあることに注目致しました。
「これからは、うどんを簀子(すのこ)に盛って売る時代から、1玉ずつ袋に入った包装麺の時代が来る」
そう考えた浩也は、"製麺業に必要で世の中で売られていないものを自前で作る"というコンセプトのもと、中古の機械をかき集め随分と多品種の機械を開発しました。
このように、浩也は"世の中にないものを自分の手で生み出す"という事に喜びを感じる人間でございました。
現在、我社の主力装置である「連続加熱調理殺菌装置」も、実はこの浩也の発案なのです。
浩也はある時、
「パンは食べたいと思ったらいつでもすぐに食べられる。そんなパンのように、ご飯も簡単に食べられる時代にしなければならない。しかも、安全に美味しく、日持ちのするようなご飯パックがこの世の中には必要だ!」
そう自分の中で思い立ち、その開発のため1つの部屋に籠り切りとなり、とうとう他の仕事は一切しなくなりました。
しかしながら、何台機械を作っても失敗するばかり。
想いは強いのに!自分の考えは間違ってはいないはずなのに!!…それは現実のものとはならず莫大な費用ばかりが膨らんでいきました。
― 理想と現実のギャップ。
とうとう浩也は俯きながら部屋を出てきて、残されたわずかばかりのかすれた声で
「…もう機械を作るのは…諦める」
と言い出したのです。
私は驚きました。
自分が思い立ったことは必ず世の中の役に立つ、と信じて疑わず行動を起こしてきたあの兄が。今、自分の目の前で背中を丸くし、今にも消えてしまいそうな蝋燭の灯のようでした。
「兄ちゃん!今の私たちの仕事(当時製麺業が主体であった)に関係する会社の社長・専務・関係者に『日持ちのするごはんパックを必ず作る!』と大風呂敷を広げていたのに…いまさら開発を止めると会社の信用を無くしてしまうから…それは絶対にだめだよ!」
私は、目の前の兄をどうにか救いたい気持ちと、これまで先代が築き上げてきた「うおかめ」の信用のためにこう言い放ちました。
私にどうにかできる考えも何もなかったのですが、"諦める"という気持ちをどうしても諦めてもらいたかったのです。
その後、浩也の装置開発には私と3番目の兄・勇次が参画する事となり、お金がなく後戻りも許されない状況の中、兄妹で必死に開発を推し進めました。
また運がいい事に、様々な分野の頭脳明晰な仲間たちとの出会いもありまして、浩也の悲願であったロボット式の装置は、この世に役立てる前段階の形となって完成させる事が出来たのです。
実は、1984年(昭和59年)4月に浩也は交通事故で亡くなりましたが、このロボット式装置の基礎完成を見て亡くなったのがせめてもの救いだと思っております。
田舎のよろず屋として忙しくさせて頂いている「うおかめ」は、お米・うどん・素麺・塩など様々な商品を取り扱ってきましたが、浩也の思い描いた装置の基本形が完成した事に伴って、お米を扱う部門に関しまして独立をさせる事に決めました。
― 会社の名前は「味きっこう」。
1989年(平成元年)、姉の幸代が命名し、この世に誕生させていただきました。
浩也の残してくれた装置は、もちろん充分使えるものではありましたが、反面まだまだ改良の余地もございました。ですので、私と3番目の兄とでその意思を引き継ぎ研究を続けていく必要性があり、創業をさせて頂く運びとなりました。
そして、その味きっこうの立ち上げから6年後。
―1995年(平成7年)1月17日午前5時46分。
私たちは、これまでの人生で経験した事のない大きな災害を経験する事になったのです。
阪神淡路大震災です。
私たちは、世の中の役に今こそ立たねばならない!という気持ちが先に立ちましたので、震災翌日には神戸に入り、温かいうどん3000食を被災された皆様にご用意させていただきました。
とても寒い日が続いた1月の神戸。
手渡したうどんと引き換えに、おばあさんが涙を流しながら「ありがとう」と仰ってくださったことが今も脳裏に焼き付いて離れません。そして、あのおばあさんの涙を思い出すたびに、ライフラインが途絶えた場合にでも対応できるパックご飯というものの重要性を感じずにはいられません。
その日より私は、浩也の残してくれた装置の開発をこれまで以上に加速させていくことになるのです。
― "あの日"から月日は流れ、1999年。
添加物を一切使用しないのに無菌状態、食品の栄養素もほぼそのまま残ったまま長期保存ができる食品パックを製造可能とした「連続加熱調理殺菌装置」は、私たち初代からの”世の中の役に立たなければならない”という想いを背負いながら、ようやく完成の日を迎える事となりました。
その中で、これから備蓄できる安心安全な食品が必要不可欠となります。
そのまますぐ食べられる「忍者食」、身体に優しく元気になる「佳の舞」等を備蓄しながら、常時食べていくという「ローリングストック方式」をお勧めします。
地球環境を改善する方向に皆が考え向かうよう、「味きっこう」は身体と精神を元気にする
食品づくりに邁進し、共に仲良く暮らせる社会づくりの応援をしていきたいと願っております。